とうちゃんからお前たちへ

かけがえなきかみさんとチビたちに捧ぐ

「もっと成長したい!」

「もっと成長したい!」

その思いがあるからこそ

地球人には苦しみもがくことがある

 

何かに失敗したり

うまくいかないから

苦しいのではない

 

「もっと成長したい!」のだが

成長を実感できないから

苦しいのだ

 

苦しみの奥には

「もっと成長したい!」と言う

とんでもなく前向きな渇望があるのだ

 

「どうせ無理」

「私なんかにはできっこないよ」

そう吐いた言葉の裏側には

「私だってもっと成長したいのよ!」

と言う渇望の声が

 今も胸の奥に鳴り響いている

 

その渇望の声に対し

自分自身が応じ

「よし!

(成長を目指して)もう一歩踏み出してみるか」

と気持ちを成長に向けることができれば

それだけで人生は好転する

 

イメージしてみて欲しい

目の前には超長い階段がある

百段昇るごとに踊り場がるので

そこでは小休止することも可能だ

 

あなたは今五十段目まで進んだ

ところが

同時にスタートを切ったメンバーの中には

早々と百段昇り切り

息抜きをしている者がいるのを知る

 

その様子を見た途端

「ああ…私には無理…」

そう思って脚を進めるのをやめてしまう

 

「何て私ってダメなやつなんだろう…」

そんな気持ちがますます自分と言う存在が嫌になってしまう

 

イメージしてもらうのは一旦ここまでだ

 

ところで

「無理」と考えたのはなぜだろう?

 

 その最も大きな理由は

「(他人との)比較」だ

 

階段を昇るスピードには

個々の違いが影響してくるので

当然早めに昇れる人もいれば

遅めになる人も出てくる

 

 それは

運動で一番になれたからといって

勉強で一番になれるとは限らないのと同じだ

 

そして

「人生」と言う名の階段を昇ることは

競技ではないので

各自のペースで進めばいいだけだ

 

 しかし

地球において「比較癖」は

風邪のウイルスのように大流行したままだ

 

現代社会においては

教育とマスコミの影響でそうなってしまっている

いわゆる「オトナ」もその洗礼を受けているのだから

「比較癖」を改善しましょう

何てことを提案する輩はほとんどいないことになる

 

そもそも「何も問題ないじゃん」

と言う意識を持てないわけだから

コントロールされたまま生涯を送る人が増えてしまう

 

答えを見出せないまま過ごした人の行き着く先は…

◎自殺をする

◎落ち込んだ気持ちを抱えたまま生涯を送る

◎落ち込んだ気持ちは胸の奥に隠しておいて楽しいことに打ち込む

そんなところだろうか

 

仮に「比較癖」はおかしい

そんな生き方を選択しなくてもいいんだ

とオレのように主張すると

「何を言ってるんだ」とバカにされる風潮もあるので

解決方法に気づいても

それを公にはしない人もひっそりといるのだろう

 

「比較癖」を持つようにコントロールをしたのは

現代からすれば古代の神々だと言われている

だがその風潮を引き継いでしまたのは地球自身だ

 

子供を叱るときに

叩くことを教育方針にしていた親を持っていると

自分が親になった時

無意識に親と同じ手法で自分の子供を叩いて

しつけをしたつもりになってしまう

 

またそれは

口から出る言葉についても同じことが言える

 

◎「そんなことをしたらダメでしょ!」

◎「宿題をしなさい!」

◎「危ないでしょ!」

 

その内容はすべて否定系だ

 ひていをすることでしか

注意したり

しつけをした気になれない人が大多数なのだ

 

 「YESマンになる」と言うのは

ひとつの極論かもしれないが

注意喚起を行うにしても

相手の心情をとらえ

もう少し肯定的な言葉や気持ちで接することができれば

家庭の中が殺伐とした状況にはならないはずだ

 

子供にとって帰ることのできる場所

それは「家庭」であり

父母のそばに居られることだ

 

しかし

父母のもとに安心していられなくなってしまったら

そもそもそこには

安心して戻れる家庭がないことになる

 

何かを買い与えることが

子供の安心につながるわけではない

モノでは心の隙間までは埋められないのだ

 

四半世紀以上戦争がない状態で

日本は突き進んできたが

追いつけ追い越せの考え方は

個々の人々が「もっと自分を成長させたい!」と願う気持ちを踏みにじり

やれ効率だ

やれ成果だと

現時点での結果にしか興味がない体制を作り上げ

相変わらず

末端の人々の生活は向上しないままだ

 

それは

「こうしなければダメですよ」

と言うプレシャーの中での暮らしを強いられているせいだ

 

だとすれば

社会の潮流に任せたままだと

「もっと成長したい!」の気持ちが育まれるわけはない

 

「変わらなければ!」

その思いをしっかりと胸にとどめ

「比較」することをやめてみよう

 

地球人の生活ぶりは

常にサングラスをかけて生活をしているのに似ている

「さぁサングラスを外して世界を眺め直してみよう!」

似てはいても

何か違う世界を感じるはずだ

 

「既成概念」と言う名のサングラスを外すことで

本来の世界を知ることができれば

「もっと自由に、柔軟に考えてもよかったんだ」

「ああ私にはこんな才能があったんだ!」

と言う気づきが生まれてくるだろう

 

その気づき

ひとつひとつを重ねていく毎に

自分自身が変わっていることを後々知ることになるだろう

 

普段同じに見えている景色も

一年前、十年前と同じだっただろうか?

違いがあるということは

「変化を起こしている」と言うことであり

変化を起こせるということは

誰もがそのチカラを内包しているということの証だ

 

道端に転がっている石ころの配置が

昨日と今日で変わっていたとする

それは昨日の世界と今日の世界は別世界になったことを意味するのだ

 

まだあなたが生まれていない時代があった

しかしあなたが生まれたことによって

地球は変わってしまう

たった「生まれる」と言うそれだけのことで

 

誰もが宇宙の創造者であり

宇宙を塗り替える力を持っている

だからコントールされたサングラスを捨てて

自分の眼で世界を見て欲しい